■今回のゲスト
石塚幸作 Twitter https://twitter.com/ledondo1105 Instagram https://www.instagram.com/sakuondrums/
Gutti原口弘大 Twitter https://twitter.com/BeatsGuttiInstagram https://www.instagram.com/gutti_j_beats_guitar/
■石塚幸作が主宰するシティポなイベント
Shibuya CityPop Session 6 https://www.facebook.com/events/638124898009073
■シティポップの嘘
シティポップに冠さ...
■今回のゲスト
石塚幸作 Twitter https://twitter.com/ledondo1105 Instagram https://www.instagram.com/sakuondrums/
Gutti原口弘大 Twitter https://twitter.com/BeatsGuttiInstagram https://www.instagram.com/gutti_j_beats_guitar/
■石塚幸作が主宰するシティポなイベント
Shibuya CityPop Session 6 https://www.facebook.com/events/638124898009073
■シティポップの嘘
シティポップに冠された「シティ」という言葉の来歴を考えると、それが常に実在しない都市の虚像の表象であったことに思い至ります。例えば松本隆ははっぴいえんどの1971年のアルバム『風街ろまん』
https://music.apple.com/jp/album/風街ろまん/270865529
にて、日本語詞の大衆歌曲史における到達点ともいえるレベルの修辞を披露しつつ、「存在しない街を幻視する」というコンセプトを提示しました。それは例えば、同アルバムの3番目に収録された曲『風をあつめて』において反復される、”路面電車が海を渡るのが 見えた”、"緋色の帆を掲げた都市が碇泊しているのが見えた"、”摩天楼の衣擦れが舗道をひたすのを見た”といった、もはやダリやシャガールの絵画さえ想起させるほどにシュールなモチーフに顕著です。『風街ろまん』そのものは狭義のシティポップの出現におよそ10年先立つ作品ですが、風街という概念がシティポップにおける「シティ」の直系の先祖にあたるであろうことは、80年代のシティポップシーンにおける松本隆の活躍を見れば自明ですし、同様のことは前掲書に収録されている補論「はっぴいえんどのシティポップへの影響を風景論を通して考える」において岸野雄一も指摘しています。
寺尾聰『reflections』https://music.apple.com/jp/album/reflections/1442489774、および大瀧詠一『A LONG VACATION』が発売された1981年、つまりシティポップ全盛時代の幕開けとほぼ時を同じくして出版され、ポストモダン文学の金字塔となった『なんとなく、クリスタル』(田中康夫 新潮社)
https://www.amazon.co.jp/なんとなく、??[…]E5??-田中-康夫/dp/4101434018
では、よく知られる通り本文中に散りばめられた400を超える固有名詞と脚注が、バブル経済前夜の消費文化に対する諧謔をはらんだ批評の回路として機能しました。興味深いことに、『なんクリ』でいわば”イジり”の対象として誇張されて描かれた都市風俗は、一部の読者にとっては次第にアクチュアルな憧憬の対象となり、「クリスタル族」というフォロワーの出現を生むまでの人気を博しました。しかしながらあくまで『なんクリ』が書かれた意図はカリカチュアだったのであり、主人公たちの言動や消費行動、彼女ら彼らが生活の舞台とする東京ですら、本当の意味では実在しないものでした。
シティポップを語るうえで落とせない要素に、永井博や鈴木英人、わたせせいぞうらの手になるアートワークを採用したアルバムカバーの数々があります。シティポップときいて、音楽よりもむしろこれらの絵を先に想起する方も多いと思います。こうしたアートワークはいずれも大きくデフォルメされた都会の景色やプール、海辺、ヨットなどを描いたもので、恐らく多くの場合米国の西海岸地域が意識されているのでしょうが、極めて匿名的です。これは、同じ都市生活者向けの音楽としても、2000年代末から人気を博したGoon TraxのジャジーヒップホップコンピレーションCD『In Ya Mellow Tone』シリーズ
https://music.apple.com/jp/album/in-ya-mellow-tone/279644907
が、見る人が見ればどこか一瞬でわかるような、実際の街の夜景の写真をカバーに採用し続けているのと対照的です。実在しない場所を描いたシティポップのカバーアートは、「カンパリソーダ」「カーステ」「渚のカフェバー」といった、都会の消費文化を彩る記号を散りばめたその歌詞世界と同様、表面的には華やかでありつつも、どこか空虚さを漂わせています。
実在しない都市とそこでの生活が、あたかも実在するかのように取り扱われ、憧れの対象となるという現象は、ポピュラーカルチャーならではの偶発的な倒錯のようでありつつ、その半面ではボードリヤールが指摘した消費社会の神話と構造から導かれる必然のようにも思えます。
この精神性は、2010年代に台頭した新しい世代のシティポップの作り手たちにも引き継がれています。しかし彼らの一部は、まったくいちから存在しない都市を描くのではなく、むしろかつて存在した(そして今は失われた)ものとしての豊かな都市を描き出し、聞き手にノスタルジアを呼び起こす音楽を作ろうとしています。
2012年発表のceroの2ndアルバム『My Lost City』https://music.apple.com/jp/album/my-lost-city/570588505はタイトルの通り、直前に起きた震災の影響を色濃く反映しながら、失われた都市の風景を描くことを試みた作品です。タイトルトラックの歌詞は衒学的でもありますが、「カーステ」「享楽と空白」「都市の悦び」などの語を含み、明らかに80年代のシティポップが湛えていたクリスタルで都会的な価値観を意識していると考えられます。しかし、ceroのメンバーが84~85年生まれであることを考えると、彼らにとっての原風景とシティポップが描こうとした風景は一致しないはずです。フロントマンである髙城晶平は東京都出身ですが、彼が物心つく頃に見ていた東京は、全盛期シティポップの作者たちが見ていた東京とは異なるはずです。ここでのシティはどこにあるのでしょうか。
古典的な芸術論において創作の基本的なあり方を示す言葉に、ギリシャ語のミメーシス(mimesis)があります。この言葉は模倣を意味する英語のミーム(meme)やミミック(mimick)と同源です。つまり芸術における創造行為は何らかの模倣であり、創ることと嘘をつくことの象徴的な次元における近接性が示唆されます。シティポップが一貫して描いてきた「シティ」は、決してわたしたちリスナーの前に現前することはない虚構です。それでいてなお、シティポップの音像や歌詞、カバーアートが、どこかで聞いたこと、見たことがあるような、何らかの懐かしさに似た感覚を惹起するのも確かです。わたしたちがシティポップを聴くとき、心の中には、いま・ここを超えて、「実際には到達しなかったが、何かが違っていたらありえたかもしれない現在(あるいは過去)」が立ち現われているのではないでしょうか。わたしたちがシティポップから受け取るノスタルジーは、そうした可能世界を対象としたものなのではないでしょうか。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
https://eiga.com/movie/1044/
を参照するまでもなく、聴き手の目の前にある景色ではない別の景色を出現させる力は、音楽が持つ偉大で不思議な機能のひとつです。
過ぎ去った、あるいは、実は存在してすらいなかったかもしれない、好景気極まりない80年代の東京の、享楽的で刹那的な風土(フード)に付帯する気分(ムード)を運ぶ文化ミーム - この祈りにも似たシティポップの嘘を、大いに味わっていきましょう。
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