聖賢が行く道と凡人が行く道は違います。聖賢は歴史と共に生きようとし、世界と共に生きようとし、未来と共に生きようとした人です。しかし、凡人は自分のために生きようとし、世界も自分のためにあると考えて生きた人です。
霊界にも霊界としての世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「私はそこで絶対的に必要な存在だ」と言える自主性なしには入れないところが天国です。家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、「私が絶対的に必要だ」と言えるそのような自主性があって、初めて行けるところが天国です。
霊界では、地球というものは、一つのほこりのようなものです。霊界は時空を超越した無限の世界です。そして「ある時代にこれこれこういう心情をもって地上に生まれ、生きて死んだ人がいれば、ここに直接現れよ!」と言えば、その人が瞬時に現れます。そのように直感的感覚が現実化される世界です。そこには食料を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません。
人間は霊界に入籍するとき、地上生活を証明する証明書をもって行かなければなりません。「私はこのように生きた。このようなことをやった」と言える生涯の証明書です。そのような証明書は自分自身が書くことはできません。初めはサタンが書きます。まずサタンに証明書をもらってから、メシヤの証明書をもらわなければならないのです。その次に神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要だということを知らなければなりません。
霊界は真の愛を中心としてために生きる所霊界に行けば霊界は膨大ですが、三段階になっています。誰が一番高いところに上がるかというと、より人のために人生を生きた人です。しかし、自分のために生きてきた人は反対の位置に立つようになります。自分のために生きた人はみな反対し、人のために生きた人はみな歓迎します。霊界に行けば、自分の親や妻も関係ありません。高いところに行く人はみな、人のために生きた人々です。
世界のあらゆる国を回りながら、自分の母と家庭に対する愛を拡大したような心情をもってために生き、世界の人々をみな悪から救おうとする聖人の心をもった人々が、高いところに行くのです。自分のために生きた人は地獄に行くのであり、人のために生きた人は天国に行くのです。この二つの世界が死において分かれます。
ですから、全体のために生き、より大きなもののために生きなさい、というのです。世界のために生き、神様のために生き、人類の解放のために生きなさい、というのです。これからは、互いにために生きようとする競争が始まるでしょう。
天の国では、ために生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために私が生きれば、その人に乗ってジャンプできるのです。その人のために生きるのは、神様が創造して相対を造ったのと同じなので、その人の愛の対象圏に立とうということです。
人のために一〇〇パーセント生きる人に対しては、「私を踏み越えていってください!」と言うのです。どんなにアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりもその国の国民のために生きる人がいれば、その人が大統領を踏み越えていっても、みな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを得ようとするときは、みな怨讐になります。
霊界でも同じです。より大きなことのために生きようとするときは、自然に通過します。より大きなことのために生きるようになれば、自然に通じるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれます。すべての国がみな含まれるのです。
みなが歓迎するその方向の内容とは、真の愛を中心としてために生きる愛の道以外にないという結論が出てきます。死ぬときにもっていくべきものは、神様を愛し、自分を愛し、本質的人間としての自分を立てるために苦労し、自分と相対との夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したものです。
人類を愛し、神様を愛したことが、最後に残り、あの世の所有権決定の基準になります。霊界に行けば、伝道した人の数によって皆様の所有権が決められることを知らなければなりません。霊界に行って誇るべきものが何かというと、どれほど人を慕って生きたかということです。
あの世で必要なものは、ほかのものではありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛したことです。妻が話すとき、「あなたは私より神様をもっと愛してから私を愛してください」と言ってこそ、夫からより高い次元の神様のような愛を受けられるようになるのです。
心情圏の世界は愛が普遍化される世界今日、レバレンド•ムーンは心情圏を説いていますが、心情圏の基地とは、神様を中心とした真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、そして真の子女の愛というものです。そのような愛が普遍化される世界が心情圏の世界です。
そのような本然の世界においては、愛する夫婦の愛の基準を中心として生きたとしても、天と地、天宙を中心とした夫婦の愛でなければなりません。ですから、その世界に合格できる愛の基盤をどこで築くのでしょうか。レバレンド•ムーンは、この世でそれを築いていかなければならないと教えているのです。この世で何よりも貴いとされているものではなく、心情圏世界の合格者になるためです。
ですから、霊界には家庭を連れて入らなければならない原則があるのです。どうして息子、娘がいなければなりませんか。子孫とは本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混ざって生まれたものです。したがって、子孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を形成することができず、東西南北に拍子を合わせられないのです。子孫をもてなければ、あの世に行っても、楽しみ、安息できる場所がありません。
皆様。霊界では宗教や宗派は必要ありません。そこに行って長老派やカトリックというものは必要ありません。神様との生活圏内に入るのです。
あの世に行けば、世界を愛した人もいて、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちがみないるでしょう。しかし、レバレンド•ムーンが知る限りでは、今までは神様の本然の愛の中で心情圏の伝統を中心として生きた人は一人も行っていないのです。何かを出発させるときは、神様を中心として出発しなければなりません。霊界に行けば、そのような原則にどれほど同化し、どれほど一致したかということによって、今後、地獄から中間霊界、楽園、天国まで連結されるのです。
何が一番貴い道かというと、天のために地上でどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したかということです。それがあの世のどこでもパスするチケットです。あの世に行けば、他の国の人同士は一緒にいられませんが、すべての宗教圏は一緒にとどまることができます。
宗教圏は、一つの世界を願って歩み、一つの神様を信じていくので、一緒にとどまることができるのです。宗教を信じる人々がこの世の人々と違うこととは何かというと、彼らは一生の間霊界を標準として生活するという点です。
宗教というものは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がいらっしゃるところと神様が住んでいらっしゃるところを中心として、私たちが関係を結ぶことのできる内容を教えてくれるのです。
世界宗教国連創設の主唱世界の各宗教を代表して、きょうこの場に参席された皆様に、私がこれまでお話ししたとおり、人間の生死の問題を中心とした生の価値を集中して取り上げたのは、他意があってのことではありません。生と死に対する正しい教えを伝えるのは、私たち宗教指導者たちの責任であることを強調するためです。
今日、この世界の政治指導者たちは、国連を通じた世界平和と人類の繁栄を追求しています。しかし、私の判断では、政治、経済、軍事的側面を中心とした国連の機能だけでは、世界平和の道は不完全だというのです。政治、経済、軍事的手段は、外的、肉的、物質的側面にすぎません。ですから、より内的、霊的、精神的な側面は、宗教的教えと世界のすべての宗教の連合と一致した行動を通してのみ可能なのです。
私は、きょうこの場を借りて、既存の国連に世界の主要宗教とその指導者たちが参与する、世界宗教国連の機構が創設されなければならないことを主唱するものです。世界と人類の未来のために、きょうこの時点で、世界宗教国連の創設とその役割の重要性について、これから皆様と世界のすべての国々が、さらに深く論議してくださることをお願いするものです。ありがとうこざいました。