ダーウィンの進化論は唯物思想に立脚していますが、精神は物質から生まれるという彼らの思想は、根っこから間違っています。人間は神が創造された被造物であり、すべての存在は精神と物質の両面を備えた統一体なので、共産主義の理論と思想は間違ったものです。すれでも私は、日本留学時代に共産主義者と一緒に独立運動をしました。彼らもやはり祖国光復のために命を惜しまない良き友人でしたが、彼らと私は根本的に考えが違いました。したがって、私たちは、祖国光復が実現した後、それぞれの道を歩んでいかざるを得ませんでした。
私は共産主義の唯物史観に反対する者です。全世界的に勝共運動を展開し、共産主義国家ソ連の世界赤化戦略に立ち向かい、自由世界を守護しなければならないと、歴代のアメリカ大統領に直言してしてきました。私たちの運動を快く思わない共産国家は、私を亡き者にしようとテロを試みたりしましたが、私は彼らを憎んだり、敵と思ったりはしませんでした。私は共産主義の思想と理念に反対しているのであって、その人たちを憎んだのではありません。神様は共産主義者までも一つに抱きかかえることを願われる方です。
そのような意味で、冷戦時代の末期である1990年4月に、ソ連のモスクワに入っていってゴルバチョフ大統領に会い、その翌年11月に北朝鮮の平壌を訪問して金日成主席と会ったのは、ただ単なる命がけの冒険ではありませんでした。それは天の御旨を伝えるために、私が行くべき宿命でした。「モスクワ(Moscow)」を英語で発音すれば「マスト・ゴー(行かなければならない)」と聞こえます。
私は共産主義にたいして確固たる考えを持っていました。ボルシェビキ革命(1917年)以降60年が経てば、徐々に滅亡の兆候が現れ、70年を経た1987年には、精も根も尽き果てて倒れると確信していました。1985年、当時の私は米ダンベリー刑務所に収監されていましたが、面会に訪れたシカゴ大学の著名な政治学者、モートン・カプラン博士に、8月15日になる前に「ソ連共産帝国の崩壊」を宣布するように言いました。
カプラン博士は「ソ連帝国の滅亡を宣布するのですか? どうしてそんな危険なことを……」と全く乗り気ではありませんでした。日が最後に最も華々しく燃えるように、当時は共産主義の没落を予感させる兆候が見えるどころか、かえってより勢力を広げている時だったので、気後れするのも当然でした。もしも的外れな宣言になってしまったら、学者としての名声が一度に消滅してしまうのは明白でした。
「レバレンド・ムーン(文師)、共産主義が没落するというあなたの話は信じます。しかし、まだ時ではないようです。ですからソ連帝国の滅亡『滅亡』よりは『滅亡する可能性がある』と遠回しに言ってはいけませんか」
博士の話に私は烈火のごとく怒りました。人がいくら気後れしても、確信があるときは、勇気を出して、死力を尽くして闘わなければならないと思ったのです。
「カプラン博士、それはどういうことですか。ソ連帝国の滅亡を宣言するのは、そのくらいはっきりとした意味があるからです。あなたが共産主義の終焉を宣言する日、共産主義はまさにその時から力を失うようになるのに、なぜ躊躇するのですか」
結局、カプラン博士は、ジュネーブで開かれた世界平和教授アカデミーの国際会議で「ソ連共産帝国の崩壊」を宣言しました。誰も考えつかないことでした。その頃、中立国であるスイスのジュネーブは、ソ連の国家保安委員会(KGB)が用意周到に配置した数万人のKGB要員が、世界を駆け巡って情報収集しながらテロを企てる所でした。その上、会議が開かれたインターコンチネンタル・ホテルはソ連大使館の向かいにあったので、カプラン博士が抱いた恐怖感は十分に理解できます。しかし、数年後、博士はいち早くソ連崩壊を予測した学者として大きな名声を手にしました。
1990年4月、私は世界言論人会議の主催者としてモスクワに乗り込みました(同時に行われた世界平和頂上会議、ラテンアメリカ統一連合国際会議を合わせて「モスクワ大会」と呼ぶ)。意外にもソ連政府は、空港から国家元首級の待遇をしてくれました。警察のエスコートを受けてモスクワ市内に入っていきました。私の乗った自動車が、普段は誰も使うことができず、大統領と国賓だけが通ることのできる中央の黄色い〝黄金路〟を走りました。その時はまだソ連は崩壊しておらず、冷戦が継続している時代だったのに、反共主義者の私を非常に手厚く迎えてくれたのです。
私は世界言論人会議の基調講演で、ソ連のペレストロイカ(改革・立て直し)を称賛しながら、その革命は必ず無血革命でならなければならず、心と魂の革命でなければならないと訴えました。世界言論人会議に出席するためにモスクワを訪問したのですが、実を言えば、私の関心はゴルバチョフ大統領との会見に集中していました。
当時、ペレストロイカ政策が成功し、ソ連国内でのゴルバチョフの人気はとても高いものでした。それこそアメリカの大統領には10回でも会うことができる私でしたが、ゴルバチョフに会うのは難しい時でした。しかし、私には彼に会って話すことがあったので、必ず会いたいと思っていました。ゴルバチョフがソ連を改革して共産世界に自由の風が吹きましたが、時が経つにつれて、改革の刃は彼の背中を狙うようになっていました。このまま行けば、すぐに大きな危険に遭遇してしまうところだったのです。
「彼が私に会わなければ天運に乗る道がなく、天運に乗らなければ彼は生き延びることができない」
私が心配しているという話がゴルバチョフ大統領の耳に入ったのか、彼はその翌日(4月11日)、モスクワのクレムリン宮殿に私を招待しました。ソ連政府が送ってくれたリムジンに乗ってクレムリン宮殿の奥に入っていきました。まず大応接室に入って、私たち夫婦が座り、その横に前・現職の各国大統領・首相らがテーブルを囲んで座りました。ゴルバチョフ大統領は、ペレストロイカの成功を満面の笑みで熱心に説明してくれました。それが終わると、いよいよ単独会談です。大統領執務室に場所を移すと、私は時を逃さずゴルバチョフ大統領に言いました。「大統領はペレストロイカですでに素晴らしい成功を収めていらっしゃいますが、それだけでは十分な改革はできません。今すぐこの地に『宗教の自由』を許可してください。神様なしに物質世界だけを改革しようとすれば、ペレストロイカは必ず失敗します。共産主義はもうすぐ終わります。この国に『宗教の自由』を呼び起こしてください。それこそが国を救う道です。これからはソ連を解放した勇気で、全世界の平和のために働く世界の大統領になってください」「宗教の自由」という、全く予想もできなかった言葉が飛び出すと、ゴルバチョフ大統領は少なからず当惑し、顔がこわばりました。しかし、「ベルリンの壁」崩壊を容認した人らしく、すぐにこわばった顔をゆるめ、私の言葉を真摯に受け入れました。私はすぐに、「韓国とソ連はもうお互いに国交を結ばなければなりません。そのためにも、大韓民国の盧泰愚大統領を必ず招待してください」と言葉を続けました。さらに、韓国とソ連が国交を樹立するとどのようなメリットがあるのかということも、一つ一つ説明しました。私の話をすべて聞いた後、ゴルバチョフ大統領はひときわはっきりとした口調で約束しました。
「韓ソ関係は順調に発展すると確信しています。何よりもまず朝鮮半島の政治的な安定と緊張緩和が必要だと思います。韓国との国交樹立は今や時間の問題です。そこには何の障害もありません。文総裁が提案されたとおり、盧泰愚大統領にもすぐに会うようにします」
その日私は、ゴルバチョフ大統領と別れる際、私の腕時計を外して彼の手首にはめてあげました。まるで昔からの友人に対するようなざっくばらんな私の態度に当惑する彼に向かって、「大統領が今推進していらっしゃる改革政策が困難に直面するたびに、この時計を見ながら私との約束を思い起こせば、天が必ず道を開いてくださるでしょう」と強調して言いました。
私と約束したとおりゴルバチョフ大統領は、その年の6月、サンフランシスコで盧泰愚大統領と会い、韓ソ首脳会談を持ちました。そして、1990年9月30日、韓国とソ連は86年目に歴史的な国交樹立を果たしたのです(第一次日韓協約で外交権を一部失った1904年8月以来86年目に、という意味)。もちろん、政治は政治家が、外交は外交官があることですが、時として、長い間ふさがっていた水田の水の出入り口に穴を開ける上で、何の利害関係もない宗教者の役割がより効果的なこともあります。
それから4年後、ゴルバチョフ前大統領はソウルを訪問し、漢南洞の私の家を訪ねてきました。その時はすでに権力の座を去って、在野の人になっていました。1991年8月、ペレストロイカに反対する反改革派のクーデターが起きた後、彼は兼任していた共産党書記長を辞任し、ソ連の共産党を解体しました。共産主義者の彼が自分の手で共産党をなくしてしまったのです。
ゴルバチョフ前大統領は、私たちが真心を込めて準備したプルコギ(焼肉)とチャプチェ(春雨と野菜、肉などを炒めた韓国料理)を箸で美味しそうに食べました。デザートの水正果を称賛しながら、「韓国の伝統料理はとても素晴らしい」と何度も繰り返しました。権力の座から退いたゴルバチョフ氏とライサ夫人は、その間に随分と変わっていました。かつてモスクワ大学でマルクス・レーニン主義を講義していたほどの徹底した共産主義者だったライサ女史の首には、十字架のネックレスが光っていました。
「大統領は偉大なことをやり遂げられました。たとえソ連大統領の地位を明け渡したとしても、今では平和の大統領になられました。あなたの知恵と勇気のおかげで、戦争なしに世界平和を成就できるようになりました。世界のために、最も偉大で、永遠に美しく輝くことをされたのです。神様の仕事をされたあなたは平和の英雄です。ロシアの歴史に永遠に残る名前は、マルクスではなく、レーニンでもなく、スターリンでもなく、ひとえにミハイル・ゴルバチョフだけです」
私は戦争なしに、血を流すことなしに、共産主義の宗主国(総本山)たるソ連の解体をやり遂げたゴルバチョフ前大統領の決断を高く褒め称えました。すると彼は、「レバレンド・ムーン(文師)、私はきょう大変な慰労を受けています。その言葉を聞いてとても力が出ます。私の余生は世界平和のための事業に捧げます」と言って、私の手を固く握りしめました。